本日は、79天皇寺、78郷照寺、77道隆寺、76金倉寺、75善通寺、74甲山寺、73出釈迦寺、72曼茶羅寺、71弥谷寺の9寺を打ち、予定宿泊場所は道の駅ふれあいパークみのとする約41kmの行程です。 4時前に起床し、昨日打ち残した79天皇寺を打つために5時5分にホテルを出発しました。 辺りは真っ暗でしたので、ヘッドランプを装着しました。 直後に、雨がパラパラ。 そんな~っていう雰囲気でしたが、傘を差してとにかく歩きました。 国道11号線沿いに進み、6時頃、綾川橋を渡り鴨川駅まで来たときには、雨は止み、辺りが明るくなり始めました。 鴨川駅からは、予讃線沿いに進み、6時41分、79天皇寺に到着しました。 天王寺と記された方は、残念ながら門が閉まっていましたが、隣の白峰宮は、特に門はありませんでした。 白峰宮の鳥居を潜り散策していると、掃除をしている方がおられ、挨拶を交わしました。 そして彼女の方をよく見ると、天皇寺と記された本堂、大師堂があります。 天皇寺の本堂、大師堂は、白峰宮の鳥居を潜り左にあり、門が閉まっている部分は、天皇寺の納経所や社務所がある部分だということを教えていただきました。 そうであるなら今のうちにと、ゆっくり、お勤めをさせていただきました。 なお、大鳥居の左右に脇鳥居がつく「三輪鳥居」は、全国でも珍しいということです。 79天皇寺では、一番に参拝を済ませ、7時ジャストに御朱印をいただきました。 次は、予讃線沿いの歩き遍路道を進み、約6km先の78郷照寺です。 8時00分、昨日テント泊を予定をしていた高速道路の下につくられた田尾坂公園に到着しました。 ところが、高架橋の脚部分が工事中で幅広くフェンスで囲まれていました。 これでは、高架橋を雨露よけに利用することができませんし、テント泊する場所もかなり限定的にならざるを得ません。 つまり、昨日ここまで来た場合、テント泊は極めて条件が良くなかった訳です。 改めて、同行二人。見守られているような感覚を覚えました。南無大師遍照金剛 新町橋を通って大束川を渡って行くと、旧来からの町並みを残した落ち着いた門前町に続きます。 8時27分、お遍路さんを格安の料金で泊めてくださる「善根宿うたんぐら」の前を通過しました。 当時は、コロナ禍で、宿泊を自粛しているとのことでした。 8時30分、78郷照寺に到着しました。 厄除大師、大吉地蔵をお参りすることができました。また、境内から瀬戸大橋を望むことができました。 78郷照寺を打ち終え、約7.2km先の77道隆寺へ予讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 10時41分、77道隆寺に到着しました。 77道隆寺を打ち終え、約3.9km先の76金倉寺へ、今度は土讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 11時45分、76金倉寺に到着しました。 乃木将軍寓居(仮住まいした)の寺で有名とのことで、「乃木将軍妻返し松」と記された松がありました。 76金倉寺を打ち終え、約3.8km先の75善通寺に12時55分に到着しました。 弘法大師生誕の地として知られる75善通寺は、国重要文化財の五重塔、金堂等が有名です。 75善通寺を打ち終え、1.6km先の74甲山寺に13時40分に到着しました。 74甲山寺には、弘法大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。 74甲山寺を打ち終え、2.2km先の73出釈迦寺に向かいます。 田園地帯を北西に進み、我拝師山(がはいしやま)を上って行きます。 14時28分、73出釈迦寺に到着しました。 弘法大師が7歳の時、我拝師山(がはいしやま)に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。 すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめましたという伝説がある寺です。 73出釈迦寺を打ち終え、600m程下の72曼茶羅寺に14時52分に到着しました。 境内には、弘法大師が寺を建立したときに手植えをしたといわれる「不老の松」がありましたが、2002年に松くい虫のため枯死しました。 この枯死した不老松の幹部にお大師さんのお姿を刻み、お手植えご縁の名残を留めたのが「笠松大師」だそうです。 72曼茶羅寺を打ち終え、3.5km先の今日最後の札所、71弥谷寺に向かいます。 大池、上池の縁を通り、高松自動車道の下を潜るトンネルを抜けます。 弥谷山への坂道はすぐに険しいトレイルに変わっていきました。 竹藪を通り過ぎ、2つの石段を上り、16時5分、71弥谷寺の山門に辿り着きました。 山門を抜けると、長~い石段が現れ、さらに岩の間をくねくねと石段が潜り抜けていきます。 さらに、石段を上って行くと、やっと本堂への矢印表示がありました。 そして、そこには『こちらで450段目です。』と記されていました。 10切幡寺の333段より多いじゃん。 それも、40km位歩いた後の450段ですよ。 ・・・ と思ったら、まだまだ石段がありました。 さらに ・・・ 71弥谷寺を打ち終え、道の駅ふれあいパークみの温泉に17時40分に到着しました。 今日は、ロードが多かったので足裏が悲鳴をあげていました。 そして、最後が71弥谷寺の500段以上ある階段で精魂使い果たしたって雰囲気でした。 道の駅みので温泉に入り、スッキリした後、食事をしました。 19時00分、道の駅ふれあいパークみの喫茶店の後にテント泊させていただきました。 暫くすると、中年女性の歩きお遍路さんが来られテント泊の準備を始められました。 彼女と色々と情報交換をしていて、毎日汗びっしょりになり、洗濯が大変だというような話になりました。 すると彼女が、『私の知り合いの男性は、10日間くらい同じ服着てたよ。5日くらい同じ服着ていても大丈夫ですよ。』と言い出しました。 快適さや清潔さ、他人への配慮や他人から評価に過度に拘らなければ、もっと楽に過ごせそうな気がしてきました。 令和2年四国歩き遍路(逆打ち)回想録 メニュー画面へ
2020年12月24日木曜日
令和2年四国歩き遍路(逆打ち)回想録 27日目
27日目 10月24日(土) 雨のち晴れ
ホテル ジェンティール(5:05)-79天皇寺(6:41)-田尾坂公園(8:00)-78郷照寺(8:30)-77道隆寺(10:41)-76金倉寺(11:45)-75善通寺(12:55)-74甲山寺(13:40)-73出釈迦寺(14:28)-72曼茶羅寺(14:52)-71弥谷寺(16:05)-道の駅ふれあいパークみの温泉(17:40)-道の駅ふれあいパークみのテント(19:00)
歩行距離41km、歩数55800歩、累積歩行距離860km、累積歩数1225200歩
本日は、79天皇寺、78郷照寺、77道隆寺、76金倉寺、75善通寺、74甲山寺、73出釈迦寺、72曼茶羅寺、71弥谷寺の9寺を打ち、予定宿泊場所は道の駅ふれあいパークみのとする約41kmの行程です。 4時前に起床し、昨日打ち残した79天皇寺を打つために5時5分にホテルを出発しました。 辺りは真っ暗でしたので、ヘッドランプを装着しました。 直後に、雨がパラパラ。 そんな~っていう雰囲気でしたが、傘を差してとにかく歩きました。 国道11号線沿いに進み、6時頃、綾川橋を渡り鴨川駅まで来たときには、雨は止み、辺りが明るくなり始めました。 鴨川駅からは、予讃線沿いに進み、6時41分、79天皇寺に到着しました。 天王寺と記された方は、残念ながら門が閉まっていましたが、隣の白峰宮は、特に門はありませんでした。 白峰宮の鳥居を潜り散策していると、掃除をしている方がおられ、挨拶を交わしました。 そして彼女の方をよく見ると、天皇寺と記された本堂、大師堂があります。 天皇寺の本堂、大師堂は、白峰宮の鳥居を潜り左にあり、門が閉まっている部分は、天皇寺の納経所や社務所がある部分だということを教えていただきました。 そうであるなら今のうちにと、ゆっくり、お勤めをさせていただきました。 なお、大鳥居の左右に脇鳥居がつく「三輪鳥居」は、全国でも珍しいということです。 79天皇寺では、一番に参拝を済ませ、7時ジャストに御朱印をいただきました。 次は、予讃線沿いの歩き遍路道を進み、約6km先の78郷照寺です。 8時00分、昨日テント泊を予定をしていた高速道路の下につくられた田尾坂公園に到着しました。 ところが、高架橋の脚部分が工事中で幅広くフェンスで囲まれていました。 これでは、高架橋を雨露よけに利用することができませんし、テント泊する場所もかなり限定的にならざるを得ません。 つまり、昨日ここまで来た場合、テント泊は極めて条件が良くなかった訳です。 改めて、同行二人。見守られているような感覚を覚えました。南無大師遍照金剛 新町橋を通って大束川を渡って行くと、旧来からの町並みを残した落ち着いた門前町に続きます。 8時27分、お遍路さんを格安の料金で泊めてくださる「善根宿うたんぐら」の前を通過しました。 当時は、コロナ禍で、宿泊を自粛しているとのことでした。 8時30分、78郷照寺に到着しました。 厄除大師、大吉地蔵をお参りすることができました。また、境内から瀬戸大橋を望むことができました。 78郷照寺を打ち終え、約7.2km先の77道隆寺へ予讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 10時41分、77道隆寺に到着しました。 77道隆寺を打ち終え、約3.9km先の76金倉寺へ、今度は土讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 11時45分、76金倉寺に到着しました。 乃木将軍寓居(仮住まいした)の寺で有名とのことで、「乃木将軍妻返し松」と記された松がありました。 76金倉寺を打ち終え、約3.8km先の75善通寺に12時55分に到着しました。 弘法大師生誕の地として知られる75善通寺は、国重要文化財の五重塔、金堂等が有名です。 75善通寺を打ち終え、1.6km先の74甲山寺に13時40分に到着しました。 74甲山寺には、弘法大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。 74甲山寺を打ち終え、2.2km先の73出釈迦寺に向かいます。 田園地帯を北西に進み、我拝師山(がはいしやま)を上って行きます。 14時28分、73出釈迦寺に到着しました。 弘法大師が7歳の時、我拝師山(がはいしやま)に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。 すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめましたという伝説がある寺です。 73出釈迦寺を打ち終え、600m程下の72曼茶羅寺に14時52分に到着しました。 境内には、弘法大師が寺を建立したときに手植えをしたといわれる「不老の松」がありましたが、2002年に松くい虫のため枯死しました。 この枯死した不老松の幹部にお大師さんのお姿を刻み、お手植えご縁の名残を留めたのが「笠松大師」だそうです。 72曼茶羅寺を打ち終え、3.5km先の今日最後の札所、71弥谷寺に向かいます。 大池、上池の縁を通り、高松自動車道の下を潜るトンネルを抜けます。 弥谷山への坂道はすぐに険しいトレイルに変わっていきました。 竹藪を通り過ぎ、2つの石段を上り、16時5分、71弥谷寺の山門に辿り着きました。 山門を抜けると、長~い石段が現れ、さらに岩の間をくねくねと石段が潜り抜けていきます。 さらに、石段を上って行くと、やっと本堂への矢印表示がありました。 そして、そこには『こちらで450段目です。』と記されていました。 10切幡寺の333段より多いじゃん。 それも、40km位歩いた後の450段ですよ。 ・・・ と思ったら、まだまだ石段がありました。 さらに ・・・ 71弥谷寺を打ち終え、道の駅ふれあいパークみの温泉に17時40分に到着しました。 今日は、ロードが多かったので足裏が悲鳴をあげていました。 そして、最後が71弥谷寺の500段以上ある階段で精魂使い果たしたって雰囲気でした。 道の駅みので温泉に入り、スッキリした後、食事をしました。 19時00分、道の駅ふれあいパークみの喫茶店の後にテント泊させていただきました。 暫くすると、中年女性の歩きお遍路さんが来られテント泊の準備を始められました。 彼女と色々と情報交換をしていて、毎日汗びっしょりになり、洗濯が大変だというような話になりました。 すると彼女が、『私の知り合いの男性は、10日間くらい同じ服着てたよ。5日くらい同じ服着ていても大丈夫ですよ。』と言い出しました。 快適さや清潔さ、他人への配慮や他人から評価に過度に拘らなければ、もっと楽に過ごせそうな気がしてきました。 令和2年四国歩き遍路(逆打ち)回想録 メニュー画面へ
本日は、79天皇寺、78郷照寺、77道隆寺、76金倉寺、75善通寺、74甲山寺、73出釈迦寺、72曼茶羅寺、71弥谷寺の9寺を打ち、予定宿泊場所は道の駅ふれあいパークみのとする約41kmの行程です。 4時前に起床し、昨日打ち残した79天皇寺を打つために5時5分にホテルを出発しました。 辺りは真っ暗でしたので、ヘッドランプを装着しました。 直後に、雨がパラパラ。 そんな~っていう雰囲気でしたが、傘を差してとにかく歩きました。 国道11号線沿いに進み、6時頃、綾川橋を渡り鴨川駅まで来たときには、雨は止み、辺りが明るくなり始めました。 鴨川駅からは、予讃線沿いに進み、6時41分、79天皇寺に到着しました。 天王寺と記された方は、残念ながら門が閉まっていましたが、隣の白峰宮は、特に門はありませんでした。 白峰宮の鳥居を潜り散策していると、掃除をしている方がおられ、挨拶を交わしました。 そして彼女の方をよく見ると、天皇寺と記された本堂、大師堂があります。 天皇寺の本堂、大師堂は、白峰宮の鳥居を潜り左にあり、門が閉まっている部分は、天皇寺の納経所や社務所がある部分だということを教えていただきました。 そうであるなら今のうちにと、ゆっくり、お勤めをさせていただきました。 なお、大鳥居の左右に脇鳥居がつく「三輪鳥居」は、全国でも珍しいということです。 79天皇寺では、一番に参拝を済ませ、7時ジャストに御朱印をいただきました。 次は、予讃線沿いの歩き遍路道を進み、約6km先の78郷照寺です。 8時00分、昨日テント泊を予定をしていた高速道路の下につくられた田尾坂公園に到着しました。 ところが、高架橋の脚部分が工事中で幅広くフェンスで囲まれていました。 これでは、高架橋を雨露よけに利用することができませんし、テント泊する場所もかなり限定的にならざるを得ません。 つまり、昨日ここまで来た場合、テント泊は極めて条件が良くなかった訳です。 改めて、同行二人。見守られているような感覚を覚えました。南無大師遍照金剛 新町橋を通って大束川を渡って行くと、旧来からの町並みを残した落ち着いた門前町に続きます。 8時27分、お遍路さんを格安の料金で泊めてくださる「善根宿うたんぐら」の前を通過しました。 当時は、コロナ禍で、宿泊を自粛しているとのことでした。 8時30分、78郷照寺に到着しました。 厄除大師、大吉地蔵をお参りすることができました。また、境内から瀬戸大橋を望むことができました。 78郷照寺を打ち終え、約7.2km先の77道隆寺へ予讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 10時41分、77道隆寺に到着しました。 77道隆寺を打ち終え、約3.9km先の76金倉寺へ、今度は土讃線沿いの歩き遍路道を通って行きます。 11時45分、76金倉寺に到着しました。 乃木将軍寓居(仮住まいした)の寺で有名とのことで、「乃木将軍妻返し松」と記された松がありました。 76金倉寺を打ち終え、約3.8km先の75善通寺に12時55分に到着しました。 弘法大師生誕の地として知られる75善通寺は、国重要文化財の五重塔、金堂等が有名です。 75善通寺を打ち終え、1.6km先の74甲山寺に13時40分に到着しました。 74甲山寺には、弘法大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。 74甲山寺を打ち終え、2.2km先の73出釈迦寺に向かいます。 田園地帯を北西に進み、我拝師山(がはいしやま)を上って行きます。 14時28分、73出釈迦寺に到着しました。 弘法大師が7歳の時、我拝師山(がはいしやま)に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。 すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめましたという伝説がある寺です。 73出釈迦寺を打ち終え、600m程下の72曼茶羅寺に14時52分に到着しました。 境内には、弘法大師が寺を建立したときに手植えをしたといわれる「不老の松」がありましたが、2002年に松くい虫のため枯死しました。 この枯死した不老松の幹部にお大師さんのお姿を刻み、お手植えご縁の名残を留めたのが「笠松大師」だそうです。 72曼茶羅寺を打ち終え、3.5km先の今日最後の札所、71弥谷寺に向かいます。 大池、上池の縁を通り、高松自動車道の下を潜るトンネルを抜けます。 弥谷山への坂道はすぐに険しいトレイルに変わっていきました。 竹藪を通り過ぎ、2つの石段を上り、16時5分、71弥谷寺の山門に辿り着きました。 山門を抜けると、長~い石段が現れ、さらに岩の間をくねくねと石段が潜り抜けていきます。 さらに、石段を上って行くと、やっと本堂への矢印表示がありました。 そして、そこには『こちらで450段目です。』と記されていました。 10切幡寺の333段より多いじゃん。 それも、40km位歩いた後の450段ですよ。 ・・・ と思ったら、まだまだ石段がありました。 さらに ・・・ 71弥谷寺を打ち終え、道の駅ふれあいパークみの温泉に17時40分に到着しました。 今日は、ロードが多かったので足裏が悲鳴をあげていました。 そして、最後が71弥谷寺の500段以上ある階段で精魂使い果たしたって雰囲気でした。 道の駅みので温泉に入り、スッキリした後、食事をしました。 19時00分、道の駅ふれあいパークみの喫茶店の後にテント泊させていただきました。 暫くすると、中年女性の歩きお遍路さんが来られテント泊の準備を始められました。 彼女と色々と情報交換をしていて、毎日汗びっしょりになり、洗濯が大変だというような話になりました。 すると彼女が、『私の知り合いの男性は、10日間くらい同じ服着てたよ。5日くらい同じ服着ていても大丈夫ですよ。』と言い出しました。 快適さや清潔さ、他人への配慮や他人から評価に過度に拘らなければ、もっと楽に過ごせそうな気がしてきました。 令和2年四国歩き遍路(逆打ち)回想録 メニュー画面へ
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